やまなし探訪
夏の終わりの雨が上がると、もう秋が始まっていた
崖を覆うクズの群落には、小さな薄紫の花がちらほら
道端には、ススキの穂が高々と姿を見せている
細いトンネルを抜けると、穏やかな山里が開けてくる
快速電車が行き交い、西東京の近郊市のひとつになった上野原
街道筋に開けた「上野原宿」ではない、もうひとつの世界へ
物憂気な秋の気配に、ふと迷ってみたくなるような村がある

 中央自動車道を走りながら、仕事の帰途、いつも気にしながら見過ごしていた看板があった。上野原インターに近づくと見えてくる「秋山・道志」への案内。仕事でも休日のドライブでも、いつも目的地がある。気紛れに見知らぬインターを降りてみても、どうなるというものではない。好奇心を抑えて、帰途を急ぐ。そして、またいつもの日常に戻る。夏の終わりの物憂げな気分が、そんな気持ちを少しばかり緩ませる。旅の始まりは、遠い記憶にあったつげ義春の旅行記。確か、秋山村へ向かったはずだ。秋風が吹き始める侘びしい気持ちが、凡人を旅人にさせてくれるのかも知れない。

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富岡地区の美しい田んぼ。
これだけでもひとつのまとまった秩序ある世界を感じさせる。

 秋山村は、合併後の現在は上野原市の一部である。山梨県の東端に位置し、四方を山に囲まれた山村。東は神奈川県相模原市藤野町に、西は都留市に、南北はそれぞれ山越に道志村、大月市に接している。東西に細長い村の真中を秋山川が東流し、県境を越え相模湖に注ぐ。その河岸段丘に多くの集落が点在している。これらを結ぶ県道・四日市上野原線が村内を縦貫、遥か眼下に川面を見下ろすほどの高低差も村の日常風景となっている。

 秋山村へは、いくつかの入り方がある。県内に住む人なら、都留市禾生から朝日川に沿って上り雛鶴トンネルを抜ければたいしたことはない。東京向きの現在の村人のライフスタイルでは、上野原駅方面から桂川を渡り、一気に上って秋山トンネルを抜ければすぐ村中に入れる。明治の末、中央線が開通すると、鳥沢駅から峠越えで入る最短路が使われたこともあった。もちろん歩いてのことだ。戦前、昭和14年(1939)8月に行われた山梨郷土研究会による道志・秋山を訪ねた第4回甲州夏草道中記によれば、ワンドラーの一行は、道志村月夜野から薄久保峠を越え安寺沢に下り、一古沢、富岡を通り桜井に泊まっている。かつては、周辺のどの町からも徒歩で数時間はかかる隠れ里のような村だった。しかしひとたび村に入れば、そこには小さいながら美しい山里が広がる。小宇宙を感じさせる緑の起伏は、今も昔も変わっていない。

 漫画家・つげ義春のエッセイ『秋山村逃亡行』(『貧困旅行記』《晶文社》掲載)によれば、彼はJR上野原の駅前からタクシーで村内に入ったようだ。東京近郊のうらぶれた街や山峡の侘びしげな宿、名も知れぬ温泉を好んで訪ね歩いていたつげ義春は、山梨県にもしばしば足を延ばした。いつものペースなら、歩くか日に何本かしかないバスに乗るところだったのが、タクシーを飛ばして僅か20分足らずで、その日の宿まで来てしまった。泊まった宿は役場のある村の中心にあった。昭和50年代の終わりか60年前後のことだろう。

 今や市となり、大きく発展しつつある上野原市の賑わいを離れて、私たちも相模湖の上流にかかる桂川橋を渡った。長雨で溢れるほど水量豊かな湖面、山の緑はまだ夏の勢いのままに見える。坂を上り新しい秋山トンネルを抜けると、風景は一変する。宿案内を兼ねたタクシーの運転手と話しながら、つげ義春が通ったのは、かなり雰囲気のあった旧桜井隧道だったろう。暗く細く長いトンネルを抜け、「日本のチベット」へ向かった。東京から僅かな時間で移動したばかり。確かに、別世界に見えたのだろう。秋の夕暮れ、目のくらむほど深い秋山川の対岸の崖上に、富岡の集落が夕霞に浮んで見えたという。

美味しい山里に、今も伝わる雛鶴姫の悲話

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もう県境を越えた奥牧野の
カーブにあった無人の野菜売店に
立ち寄ってみた。

村中の一本道を行き来する車には、相模ナンバーが珍しくない。このまま下れば、すぐ藤野町に出られる。生活圏は県境を越え、村人は自由に行き来しているらしい。外に通勤する人が多いからか、平日の昼間の人影はまばら。小さな村工場の看板が、いやに目に着く。道端から見える急斜面の畑では、夏野菜がすっかり隅に片付けられ、もう秋の風情。たぶん前は、もっと趣のある燻し銀の火の見櫓が立っていたのだろう。ポンプ倉庫の前では、携帯の中継アンテナを兼ねた櫓が、季節を終えたお化けのようなヒマワリを見下ろしていた。

 私たちは、つげ義春が最初に遠望したという富岡に向かった。集落を見下ろす山裾にまで車を走らせると、晴れ渡った秋空と穂を垂れ始めた稲田が、まるで一枚の風景画のように目の前に広がった。村内でも豊かな田が広がっているのは、ここだけだ。ほとんどが山地の秋山村に、田畑は少ない。自家用の僅かの畑作と炭焼き、そして養蚕が盛んに行われてきた。戦後も昭和40年頃までは、そんな素朴な暮らしが続けられてきた。安寺沢地区には、今でも、江戸時代から続く飢饉に備え貢米を貯蔵した郷倉が見られる。富岡地区では、安寺沢川の水を利用した開田工事が戦中から始まった。農地改良は戦後まで続きようやく完成。食糧難の時代を乗り切り、みごとな水田風景が生まれた。恵みの田んぼと点在する集落。広すぎず、ちょうどほどよい空間が、見る人にもまたほっとした安らぎを与えるのだろう。

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村内に入るとお化けヒマワリが出迎えてくれた。

 村中に戻ると、つげ義春が泊まったという中野の中央旅館が、実は民宿としてまだ営業していることが分かった。偶然話し掛けたおばさんが、この宿の人だった。昔、都留市からやっと山道を往復するバスが通じた。だが、運転手が泊まる宿がない。そこで宿を始めることになったのだという。今では気安く車で行けるが、昔はどこに出るにも大変だった。それでも、勇壮な暴れ神輿で知られる上野原の牛倉神社の秋祭りには、トンネルを抜け歩いて見にいったそうだ。若かりし頃の話らしい。このおばさんが、紀行の文中に登場する「どこか愁いのある顔立ちの」の宿のお嫁さんの、今の姿なのだろうか。そんなことを訪ね来る客も少なからずいるらしい。この旅館に泊まったつげは、取材がてらの作家を装ってカメラを持って村内を彷徨う。どうやら、奥の雛鶴峠には進まず、帰りは、一古沢、奧牧野を下って再び上野原駅に出た。上野原の街にもどこか心引かれたらしい。

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一古沢の吊り橋。
眼下を秋山川が蛇行して流れていく。

 秋山川を栗谷、浜沢と遡って行くと、まもなく無生野。この辺りまで上って来ると、谷はやや浅い。峠にさしかかる手前に雛鶴神社がある。鎌倉街道の裏街道に当たる秋山村には、様々な中世文化が残されている。そんな古い伝承のひとつが、この物語である。遥か南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王は鎌倉で悲運な最後を遂げた。そば女として仕えていた雛鶴姫は、亡き皇子の首級を抱いて従者と共に相州からやがて山深い秋山村に至る。最奥の無生野に辿り着いた年の暮れ、皇子の子を身籠った姫は子を生んだが、不運にも母子ともに死んでしまった。里人は手厚く葬り、以来、正月には門松の代わりに樒の枝を立て冥福を祈ったという。確かに、南朝終焉の地ではあるのだろう。後に、護良親王の王子・綴連王がこの地に落ち延び、不思議な因縁を聞き、追善供養のため始められたのが無生野の大念仏。今では、夏のお盆と冬の小正月の年に二回行われ、白装束の男達が、太刀や竹棒を持って激しく舞い踊る。悪霊退散を念じる「ぶっぱらい」と五穀豊穣をもたらす奇祭として知られる。里人の優しい心根を伝えるだけではない、どこか日常の鬱憤を放つ一場面でもあったのだろう。場はずれな旅人が、男達といっしょに踊りまくる。翌日、売店で買った長カブの「ひなずる漬」をふとバス停に忘れそうになる。そんなシーンが、どこかの作品にあったようが気がした。

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無生野バス停。
『つげ式』旅行術では、
必ずこんな光景に眼を奪われるはずだ。

 ここから新しい雛鶴トンネルを抜ければ、車なら30分ほどで都留市に出る。とって返した帰り際、王入りの「まんじゅう・つるや」に立ち寄った。思わず「玉子入りの饅頭ですか?」などと聞いてしまったが、どこか雅びな地名が悲話を伝えているらしい。味噌と餡入りの二種、なにせボリュームたっぷりの大きさ。街場の酒饅頭とは、またひと味もふた味も違った。

辿り着けなかった犬目宿で、侘びしさ楽しむ

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『猫町紀行』でたどり着けなかった
犬目宿にはなぜか猫が多い。

 上野原で酒饅頭を食べた後、犬目宿を目指したつげ義春と相棒が道に迷う話は、同じく『猫町紀行』に出てくる。酒饅がまだ30円の時代と言えば、いつ頃だろうか。鶴川橋のたもとに車を停め、それを食べたと言うのだから、ここからそう迷うことはないと思うのだが。猫町とは、辿り着けるだけでもラッキーな幻想の町だ。どこが入口か、どこが出口か分からない。たぶん、四方津の先を右折して上り、大野貯水池を目指すところを、そのまま大月にまで行ってしまったのか。いや右折してはみたものの、談合坂辺りで迷ってしまったらしい。高速を行き来する人には分からないが、高速道路とサービスエリアの建設で、この辺りで旧街道はズタズタになってしまった。遥かな山上に犬目が見えたというのだから、まだかなり下をうろついていたことになる。鶴川、野田尻、犬目、鳥沢と念入りにチェックしていたはずだ。行きたいという思いとは裏腹に、目的地に執着しない旅だったのだろう。ついに、犬目宿は諦めた。辿り着けなかった犬目宿は、いつしか白昼夢に化したのだろう。代わりに、そんなくだりを長々と書いているおもしろい文章を残した。

 犬目宿は、かつての甲州街道の宿場町。犬目峠を越えた山上にあるため、西南に富士山を眺めることができる。葛飾北斎の「冨嶽三十六景」シリーズの「甲州犬目峠」でも知られる。桂川に沿って進む現在の国道20号線と違って、昔はずいぶん山間の高所を街道が通っていたものだ。犬目に、つげ義春がどうして興味を抱いたのか。その名もおもしろいが、ちょっとばかり道が外れていることも興味をそそったのかもしれない。かつての宿場町も今は閑散としている。犬目に猫がいたっていい。当て外れの多い気紛れに、つきあってみてもいいのでないか。名所を駆け巡り名物を味わう旅ばかりではない、こんな侘びしさを楽しむほどの余裕も、また旅には欠かせない。旅は、それぞれの度量が試される場でもあるのだ。

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富士山に近い郡内では、意外と富士山は見えにくい。
犬目宿からは、今でも雄大な富士山が遠望できる。

 幕末、郡内騒動と呼ばれる甲州一円を巻き込んだ大きな一揆があった。その首謀者のひとり犬目兵助は、当地の出身、百姓代を務める有力な農民であった。一揆の後、秩父方面に逃亡。さらに全国を流浪し、明治維新を迎えた晩年になってようやく帰村。算術、算盤を生活の糧とし、生涯の大半を旅に過ごした。日常から逃亡する旅もあれば、旅の果てに舞い戻る日常もある。どちらがほんとうとも言い難い。つげ義春の作品に登場する人物は、いつも夢と現実の狭間を彷徨う。行きずりの人が放つ不思議なエロティシズムに、甘んじて惑わされる。そんな旅が、実生活でも作品のテーマでも大きな意味を持った。目に見える風景の向こうに、人それぞれ何を見るのか。東京に近い山梨には、ふとひとりになってそんなことを考えてみる場所がある。ちょっと隠れ家になりそうなとっておきのスポットがたくさんあるように思える。

 さて、これからどこへ帰ったらいいものか。夕暮れ迫る大野貯水地で、私たちの旅も時間切れとなった。