優游
甲斐絹座のストール 江戸時代のファッションリーダーも愛した甲斐絹

かつて織物産地として隆盛を誇った郡内地域。なかでも「甲斐絹」は、高級絹織物として長きにわたって珍重され、愛され続けた。江戸時代に書かれた井原西鶴の「好色一代男」や八百屋お七で有名な「好色一代女」にも郡内縞の名で登場する。羽織の裏にチラリと見える郡内縞は、華やかな元禄時代の“粋”の象徴。今風にいえば“ファッションリーダーの愛用品”だったのだろう。

2000年以上も遡るルーツ

甲斐絹のルーツをたどると、織田信長が天下統一を目指していた天正時代にまでさかのぼる。当時、オランダからもたらされた南蛮渡来の品の数々。その中にあった絹織物を真似て作ったのが最初だという。でも、一言で真似ると言っても、簡単なことではないはず。では、どうしてそんなことができたかと言えば、当時郡内には織物の技術がすでにあったから。では、その技術はどこからもたらされたのか…

ここに一つの伝説がある。

今から2200年以上も前のこと。秦の始皇帝に不老不死の薬草を探すよう命ぜられた徐福一行が苦難の旅の果てに富士山麓へと辿り着き、貧困にあえぐこの地の人々に、養蚕と機織りの技術を伝えたという『徐福伝説』。

その真偽は定かではないが、かの時代に作ったと見られる麻や木の皮を使った織物が残っていることから、古い歴史があるということは間違いない。

さらに、自然環境も大きく寄与した。硬度が高く塩素を含まない富士の湧水は、生糸を発色が高く色ずれのない微妙な色合いに染め上げる。農作に適さない寒冷地ということもまた、織物の発展を後押しした。貴重な糧となるため、人々はこぞって良い物を作ろうと躍起になる。競い合うほどに品質は高まり、良い物は評価され高値で取引されると分かると、工夫にも磨きがかかる。個性豊かな色柄が登場する。テキスタイルデザイナーなどいない時代、考えたのは名もなき農家の人々。デザインサンプル集を見ていると、途方もない想像力にため息が出る。

織り上がった甲斐絹は、一枚一枚大切に扱われ、丁寧に製品に仕上げられていく。 小気味よい自動織機の音をBGMに、山崎織物(株)で、甲斐絹座のメンバーと打ち合わせ。(右から前田源商店前田営業部長・山崎織物山崎社長)
憎らしいほどのネーミング

甲斐の絹だから甲斐絹。単純に見えるが、実はここにも不思議な縁がある。調べてみると、語源は「海外からもたらされた絹織物」を意味する「加伊岐」。後に、「海気」「カイキ」「改機」「海黄」「海機」とも書かれるようになり、その意味合いも絹織物全般を指す名称へと変わる。さらに、明治の終わり〜大正の初めころに「甲斐絹」の文字が当てられるようになると、郡内地域で作られた絹織物を指す固有名詞へと変化していくのだ。

日本全国から霊峰富士へと訪れる富士講が、郡内の織物を諸国に持ち帰り伝播した歴史もある。明治期には県産業の一翼を担うと位置付けられ、行政のバックアップもあって、昭和初期まで安定した生産を続けていく。

こうして歴史を振り返ると、長い時間のなかで地域の文化と一体となって形作られてきた「甲斐絹」は、押しも押されもしないブランドなのだと改めて思う。

斬り捨てられ、忘れ去られるはずだった

ところが、第二次世界大戦を境に生産量は激減。人造絹糸、レーヨン、合成繊維の登場にとって代わられるように、甲斐絹はしだいに表舞台から姿を消して行く。工業化による大量生産が主流となる世の中にあって、工業ベースに乗せることが困難な繊細な工程は斬り捨てられていった。

しかし、その技術は織物職人のなかにしっかりと受け継がれ、伝統文化として伝えられていた。高い技術と品質が評価され、世界的なファッションブランドに生地を提供している企業もある。そして今、その技術を活かし、甲斐絹の復刻・再生を目指す人々が出てきた。

蚕の餌となる桑畑。昔は県内のいたる所で見られたが、今は珍しい。 両手いっぱいの繭(約70個)から、1枚のストールが作られる。
「甲斐絹座」がめざすもの

甲斐絹座がめざしているのは、熟練した技術を駆使しての新解釈による甲斐絹の復刻と再生。量産することで価格を下げ、多くの人々に甲斐絹を知ってもらいたい、愛用してもらいたいと考えている。そのため、14年前の結成より、さまざまな試行錯誤を重ねてきた。

「自動織機にかける以上、すべて昔のままというのは無理。ならば今の技術でできるものの完成度を上げ、できるだけ近い光沢と風合いを出そうと考えました」。

たとえば糸にしても、無撚りは無理でもどこまで撚りを甘くできるか、その限界を探る。そのため、何種類ものさまざまな撚りの糸を作り、実際に織機にかけて、織れる織れないや、出来上がったものの風合いを検証していく。通常業務を続けながらの、気が遠くなるような作業。さらに、生糸の産地にもこだわった。「郡内で絹織物が盛んになった背景には、山梨県の養蚕がある。ならば、山梨産の生糸を使いたい」。養蚕農家を探し、製糸業者や精錬業者を探した。残念ながら製糸と精錬は県内では絶えてしまっていたが、養蚕農家はわずかだが残っているのがわかった。早速訪ね、熱意を語り、協力を取り付けた。

そうして出来上がった7色のストール。使われているのは、光の加減によってクルクルと表情を変える、幻想的な玉虫甲斐絹。凛とした肌触り。しっかりと張りがあるのに、軽い。でも、身につけると、嘘のように暖かい。シンプルだからこそ、誤魔化しがきかない。最初にこのストールを世に出したところに、甲斐絹職人の潔さが垣間見える。

作り続けること、維持し続けること

急速に変化する世の中にあって、維持し続けることは難しい。その証拠に、便利で快適な生活を手に入れた私達は、その過程でたくさんの大切なものを捨ててきた。それは一見無駄に見えるものかもしれない。愚かなこだわりと受け取る人もいるだろう。でも、人間がその歴史の中で培ってきた技術や思いが受け継がれ、伝承技術とか伝統文化なんて言葉でくくられて保護されたり、珍しい物やおみやげ品としてわずかに生きながらえるというのではなく、その時代に合った形に姿を変えながら、毎日の生活の中でごく普通に生き続けることにこそ、意味があるのではないだろうか。そしてそれこそが、文化なのではないだろうか…。

甲斐絹座は10年20年経って「また欲しい」と言われても、「はい!」と差し出せるように、このストールを、これからもずっと作り続け、提供し続けて行こうと考えている。

復刻された玉虫甲斐絹は、今の日差しの中でも変わらず輝いている。「素敵だな、欲しいな」。見るほどに、手に取るほどに、湧いてくる思い。

西陣や丹後など日本には名だたる絹織物の産地がたくさんあるが、甲斐絹はそのなかでも異彩を放つ。絹の原料は繭。これを解し、繊維を何本かまとめて生糸を作るのだが、実は、蚕が吐き出した糸にはセリシンというたんぱく質が付着していて、これが繭を形成する際の接着剤の役割をすると同時に外敵から身を守る強さにもなっている。このセリシンを除去する工程が、「練り」すなわち「精錬」。これによって艶やしなやかさが生まれてくる。ところがここには難もあり、精錬されることで生糸は格段に弱く扱い難くなる。そのため絹織物の生産には、先に織ってから精錬する「後練り」という手法が多く用いられる。
ところが、甲斐絹は先に精錬してしまう。さらに、生糸を強く扱いやすくするためにかける「撚り」もかけない。無防備で繊細な先練り無撚りの糸。このこだわりが、独特の光沢と手に取った時のなんとも言えないさらりとした風合いを生む。
商品詳細・ご購入はこちらから